みかん小説
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"返せなかった六百二十円" 第3話

嘘の枚にも値段がある

「これを刷ったら、お父さんまで噂の片棒を担ぐことになる」

美佐は注文を父の机へ置いた。印刷所の灯はの振にわせてわずかに揺れ、活字の匂いが部を満たしていた。源吉は類を読み直したが、顔をげない。

「が払えるかどうかは、が責任を負うことだ。うちは頼まれたものを刷るだけだ」

「払えないがているのよ」

「現に、おのは営業しとる。俺が勝に嘘だと決めるのも違う」

父の言葉には理あった。は休業を発表していない。々のがふくらめば、持ちこたえられるまで危うくなる。それでも、美佐には「何らの配もございません」とは言えなかった。

帳の隅には、以刷った祝儀袋と弔いのらせが束になっていた。源吉はい商売ので、びを伝えるも、しみを伝えるも作ってきた。頼まれた文字をただ並べるだけではなく、の名や付を取り違えたらどれほどが困るかを、何度も職へ教えていた。それなのに今、の頼んだ言葉を疑っている自分が、注文先へ楯突く無礼な職にえてならなかった。

は活字箱から『必』の字を探しし、作業台に置いた。父はそれを見て『必ず、か』とので繰り返した。たった文字で、を受け取るへ約束するさが変わる。

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そのことを父はよくっていた。

父は鉛で注文額を囲んだ。千枚で円。代を引いても、井の未払いがかなり埋まる。美佐はその数字を見て、言うべきことを失いかけた。「お父さんの判断に任せる」と言えば楽だった。父に仕送りしている娘としても、員としても、だ。

だが印刷所の表へると、戸倉の妻が待っていた。さな布包みを差しし、「主の使っていた組版の具です。まだ置いていただけるなら」と言う。源吉は包みを受け取った。「戻る所はある、と伝えてください」。その会話を聞きながら、美佐は注文枚の向こうにいる々の暮らしを考えた。

翌、美佐はで森崎に尋ねた。「この文章は、どなたが確認されたんですか」。支は眉を寄せた。「本からの指示だ。してもらわねば、押しかけるが増えるばかりだ」。美佐は「印刷を頼まれたは、父のところです」と言った。

森崎はし顔をゆるめた。「それなら話がい。私も君のを助けたい」。

その「助けたい」が、美佐には怖かった。ほかの客のをかせなかったが、父の印刷所へは仕事をせる。依頼自体が正とは限らない。だが文章の真偽に疑があるなら、なぜ確認しないのか。

「私が文面を確認するではありません。ただ、なくとも窓で払戻しを待っているお客さまへ、今の言葉をそのまま伝えることはできません」

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森崎はしばらく黙り、ようやく言った。「君にはの内をで話さない義務がある。そこは忘れないように」。美佐は背筋がえるのをじた。自分の父が印刷を請け負っているため、職務ったことと族へ話してよいことの線が、ひどく細くなっていた。

夕方、父から呼ばれてへくと、注文は机から消えていた。代わりに刷りがった正が枚置かれている。森崎の名も、信用の名もあった。

「引き受けたの?」

「納期はの朝だ。まだ本刷りはしていない」

父は活字をつ、指で押さえた。「この『何ら』という文字をそうかとってな」。そして「現、預の払戻しに努めております」とする案を示した。美佐は驚いた。「は承したの?」と聞くと、父は首を横に振る。「ここから相談する」。

取引先の問・川が現れた。父に代の催促をしに来たのだ。川は注文を見るなり、「の仕事ならですな」と言った。父が「文面を直したい」と説すると、川の声は険しくなった。「注文主に逆らって仕事を失うなら、代を先に払ってもらいます」。

の供を止められたら、印刷所はの仕事までできなくなる。父は何も言わず帳面を閉じた。

帰り、美佐はへ話を入れた。夜勤の守が取り、森崎は帰ったと言った。彼女は朝、正の確認をくめるよう頼んだが、守は伝言しかできない。

「お嬢さん、お仕事のことはの朝に」。話を切ると、美佐は駅の掲示板を見げた。まだを信じようという張りと、危ないらしいというきの噂が並んでいる。

に着いた、父はこたつので、未払いを枚ずつ別のへき写していた。

「お父さん、私は昨、勝におを止めた。正しいことのつもりだった。でも職さんには何の説にもなってなかった」

父はを置いた。

「だから今度は俺の仕事まで止めるのか」

「止めたいんじゃない。嘘のない言葉で仕事を受けてほしい」

源吉はい沈黙のあと、「それがいちばん難しい注文だな」と言った。

翌朝、からしい文面が届いた。より段い表現に変わっていた。《ご預は、ご希望のときに必ず全額お支払いできます》。その末尾には、朝までに刷りげるよう朱きされていた。

美佐は仕事へ向かうを止めた。昨から今にかけて、の現が増えたというらせはつも聞いていなかった。

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