"三十八年目の帰る場所" 第1話
戻ってこなくていい
の連休、その初の朝だった。
台所の窓から入るはまだやわらかく、炊きたてのご飯から細い湯気ががっていた。私はいつものように噌汁をよそい、焼いた鮭を皿に載せ、最に自分の湯のみへお茶を注いだ。この台所につようになって、もうになる。
私は美津子、歳。夫の幸はに勤め先を定になり、今は同じ会社へ週だけ再雇用で通っている。娘の彩佳は歳で、連休だからと歳の息子・陽斗を連れ、の晩から泊まりに来ていた。
分の朝が並んだところで、私はエプロンの紐を結び直した。
「今から泊だけかけてきます」
聞を広げていた幸のが止まった。
「どこへ」
「の町にある父の。ずっと閉めたままだから、しを通しておきたいの」
父がくなってから、あのにはほとんど誰もんでいない。それでも放さずに残してきたのは、父が最期まで切にしていただったからだ。
「泊まりで?」
幸は聞から顔もげずに聞いた。
「ええ。から話していたでしょう」
「聞いてないな」
本当は週に伝えていた。その、幸はテレビを見ながら「好きにすれば」と答えていた。けれど私は訂正しなかった。こういうことをつつ説し直すのに疲れていたからだ。
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「飯はどうするんだ」
「蔵庫に分のおかずを作ってあります。煮物ときんぴらと鶏の照り焼き。ご飯も膳ずつ凍してあるから、温めてください」
すると幸はようやく聞をしげ、で笑った。
「そんな古い、まだ持っていたのか。まあ、きたいならけばいい」
そこまでは、いつもの調子だった。
次の言を聞くまでは。
「戻ってこなくていいぞ。おがいないほうがのは静かでいいからな」
幸はそう言って声をして笑った。
冗談のつもりだったのだとう。緒に暮らしてきた妻なら、むっとした顔をしても夕方には夕飯を作り、には当然のように戻ってくる。そんな確信があったのだろう。
私は黙っていた。
すると、トーストをかじりながらスマートフォンを見ていた彩佳まで顔をげた。
「いいじゃん、お母さん。ってきなよ」
「そうするわ」
「正直さ、お母さんがいないほうがの、平かもね。言もないし」
「彩佳まで何を言ってるんだ」
そうたしなめるのかとったら、幸は楽しそうに笑った。
「まあ、そうだな」
の笑い声がなった。
その、陽斗だけがフォークを置いて私を見た。
「おばあちゃん、帰ってくるよね?」
歳の子だけが、私が帰ってくるかどうかを気にしてくれた。
私は陽斗の顔を見て笑った。
「帰ってくるになったら、ちゃんと教えるわ。
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で綺麗な貝殻を拾ってくるからね」
「約束?」
「約束」
私はそう答えた。
けれど胸の奥では、その瞬、さな音がした。
何かが壊れた音ではない。
、く結びすぎて固くなっていた紐が、ふっとほどけたような音だった。
議なほど腹はたなかった。
しくもなかった。
ただ、そうなのだとった。
私がいないほうが静かで、平で、楽なのだと、夫も娘もっている。
それなら、その通りにしてあげればいい。
そうった瞬、胸のにあったいものがしだけ軽くなった。
荷物はの晩にまとめてあった。さな旅鞄つだけだ。着替えと薬、洗面具、それから父のの鍵。
玄関で靴を履く、私は駄箱のにあるさな引きしをけた。
奥に古びた茶筒がつ入っている。
、幸がその引きしをけたところを私は度も見たことがない。に何が入っているのかもらない。
私は茶筒を鞄の底へ入れた。
「ってきます」
台所から返事はなかった。
テレビの音と、器の触れう音だけが聞こえた。
玄関までってきたのは、やはり陽斗だけだった。
「おばあちゃん、ってらっしゃい」
私はそのさなを両で包んだ。
「ってきます」
扉を閉めた、暮らしたのから、夫の笑い声が聞こえた。
けれど私は振り返らなかった。
このの私はまだ、自分が泊どころか、もう度と「妻」としてあのへ戻らないことを、幸も彩佳も像していないことをっていた。
そして私自もまた、鞄の底に入れたあの古い茶筒が、週、夫の顔から笑いを完全に消すことになるとはっていなかった。