"杉原千畝の査証を得た一家、母だけが出国できない" 第2話
名の文字
「ここ、違っているわ」
ミラが指さした類を見て、母はしばらく黙った。母の名リヴカを表す文字が、つだけ別の綴りになっている。普段なら、で訂正して済むほどの違いだった。けれど国境を越えるのでは、文字が別をすることがある。
類を持ってきた若い女性は、自分をエヴァと名乗った。ポーランドから逃れてきた歳の裁縫師で、ヴィルナの宿に弟と滞しているという。
「何枚もいていると、こういうことがあるの。役所へすに直せるなら、その方がいい」
母は礼を言ってを受け取った。ミラはエヴァの元に目をやった。爪のにの糸が残っていた。自分の母と同じ、布を扱うのだった。
「あなたは、もう本の類を?」と母が尋ねる。
「弟の分も受け取った。でも、ここからるための許がまだなの」
エヴァは何でもないように言ったが、元は固かった。許を待つ者同士が、互いの窮状を詳しく語らずに助けう。そんな関係が、宿や窓の周りにいくつもできていた。
父は昼過ぎに戻った。懐計はもう持っていない。代わりに、折りたたんだ幣と銭を布の袋からした。
「ったよりなかった」
「いくら?」
父は言わず、母のいた額の横に数字をいた。やはりりなかった。母は机に向かい、持ち物の覧を作り直した。
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余分な靴、毛布、糸、の指輪。売ればになるものと、売れば困るものの境界は曖昧だった。
「お母さん、鋏まで売るの?」
「あなたには言ったでしょう。は直せば着られる。でもべ物は、直しても増えない」
その夜、ミラは父と町へた。計を買ってくれたへ戻って値を交渉しようとしたが、主は首を振った。
「ここには毎、誰かが物を売りに来る。値をげていたらこちらが暮らせない」
父は腹をてなかった。昔、計の修理を頼みに来る客を断れないがあったのを覚えているからだろう。をた、父は娘に言った。
「欲しい物を買うより、放す物を持ってくるが増えた。はそれだけで変わってしまう」
父は角の聞をじっと読んだ。言葉のに、戦線、占領、移、許という文字が幾度もてくる。どれもよりきな言葉のようだった。
宿では、エヴァの弟のパヴェウがダヴィドに文字遊びを教えていた。にを並べて、名の最初の文字を作る。は齢がく、会ってまだ数なのに、もうい友達のように笑いっていた。
「字を覚えておけば、迷わない」とパヴェウは言った。
「僕、自分の名ならけるよ」
「じゃあ、らないの名を覚えよう。最初はウラジオストク」
「すぎる!」
の笑い声を聞きながら、ミラは見らぬ港の名をにいた。
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綴りを何度も確かめる。母の名が文字違っていたことをいしたからだ。
翌朝、父は族の類を持ってかけた。ミラは同した。列の順番が来るまでに半くかかり、窓の男は類を受け取って、必な欄をつずつ確認した。母の綴りは直されていたが、今度は父の職業について質問された。
「計職です」と父が答える。
「証できるものは」
父は具のさな包みを見せた。男は具を見ず、を見ていた。
いやりとりの末に、申請は受理された。しかし境が認められたわけではない。に記された付を見て、父の眉がいた。
「結果がるまで、ここで待たなければならないのですか」
相の返事は簡単だった。ほかにも待っている者が勢いる。特別扱いはできない。
帰り、ミラは歩く速さを落とした。
「さっき、類の名を直していたがいたでしょう」
「いたな」
「違いがないだけで、通してもらえるとは限らないのね」
父は頷いた。かつて仕事で、よく似たことを言った覚えがある。
「歯をつ替えても、計全体がくとは限らない。全部の歯が、互いに噛みわなきゃいけないんだ」
宿へ戻ると、廊にしい荷物が置かれていた。主は予告通り、しい客を入れたらしい。はもっと狭い根裏部に移らされた。窓はく、がると湿った匂いがした。
母は引っ越した荷物を数えながら、古いレースの襟をに取った。ポーランドのから持ってきた、最の飾り布だった。
「これをほどいて、子どもの着の裏に縫い込む。おはか所にまとめない方がいい」
ミラは母の仕事を伝った。きな針を使い、裏にさな縫い目を作る。母の指は速い。ミラの指はまだ遅かった。
「針を急がせちゃ駄目よ。急ぐと糸が絡む」
「でも、私たちは急がなくちゃ」
母は娘を見た。答えず、糸をほどいてやった。
、エヴァが根裏へ来た。顔が悪かった。彼女は本の通過査証の入った旅券を見せたあと、別の申請用を差しした。
「パヴェウのまれた町が違うって言われた。今度は何をせばいいのか分からない」
ミラはを読み、文字ずつ比べた。エヴァの持っている古い証の名には、ポーランド語の形と、別の言語でいた形があった。発音はいのに、文字が違う。
「同じ町だと説するが必なのかもしれない」
「どこでもらえばいいの」
ミラは答えられなかった。っている言葉を増やしても、が増えるわけではない。翌、彼女は父に頼んでエヴァたちと別の窓へ向かった。
その帰り、根裏へ続く階段ので、ダヴィドが泣いていた。パヴェウがいないという。
エヴァは族ので初めて取り乱した。
彼女たちは類を取りにへただけで、には宿で待つよう言っていた。
母が廊の端から声を掛けると、宿の主がてきた。
「子どもなら、昼頃にでていったよ。駅の方角だった」
エヴァのから類が滑り落ちた。ミラはに散ったを拾いながらった。どんなにきれいな印が押してあっても、そこにかれたが無事でなければ、には何のもない。