"元夫に投げつけられたカード、残高は一億五千万円" 第10話
の断崖と真実の
樽のから吹き付ける潮は、初とはいえ肌を刺すようにたかった。
港町をるタクシーの窓から、鈍に波打つ本が見える。老舗ホテル『グランドクラシック樽』のフロントを訪ねた私は、の古い友であり、支配を務める男性から、さらなるがかりを受け取っていた。
『松浦ひな子という女性が訪ねてきたら、これを渡してほしい』
がヶにホテルへ預けていたという通のメモ。そこに記されていたのは、樽からさらにへれた、断崖絶壁が連なる祝津(しゅくつ)の岬にある、廃となった古い漁師の番の所だった。
タクシーをり、のい茂る獣をで登っていく。
波が岩肌を削る轟音と、鳥の鋭い鳴き声がに混ざる。荒涼とした岬の突端、朽ちかけた造番のに、防寒用の作業着を着たの男がっていた。
潮に髪をなびかせ、平線を見つめる、痩せた背。
「……!」
私の叫び声は、波音に掻き消されそうになりながらも、確かにその背に届いた。
男が弾かれたように振り返る。
に焼け、頬はこけ、目元にはい疲労が刻まれていた。だが、その瞳に宿る温もりと、私を見た瞬に見かれたは、紛れもなく私がしたそのだった。
「ひな子……!? どうして……なぜここに……!」
広告
駆け寄り、私はの胸へとび込んだ。作業着越しに伝わってくる、懐かしいの体温と、激しい臓の鼓。
「バカ……! 馬鹿者! なんで全部で抱え込んだのよ! 億千万円なんて残して、自分だけこんなの果てに逃げて……私たちが、そんなで幸せになれるとったの!?」
私の拳がの胸を何度も叩いた。の腕が、壊れ物を抱きしめるように、震えながら私の背に回される。
「ごめん……ごめん、ひな子……。君と蒼太を巻き込むわけにはいかなかったんだ。あの女は本物の狂気だ。俺がぬまで逃げ続けなければ、君たちの命が——」
「ふふふ……あはははは! の再会ねえ!」
障りな笑い声が、断崖のを切り裂いて響き渡った。
番のから現れたのは、黒い毛皮のコートを羽織った女——赤嶺百だった。背には、屈な体躯の私探偵とおぼしき男たちが名、酷なでち塞がっている。
「若の内藤から連絡が入ってね。あの抜けな融資課が裏からあなたを逃がしたと聞いて、の便を追跡させてもらったわ。ご苦労様、棒猫さん。あなたのおかげで、ようやく私のしい婚約者を追い詰めることができたわ」
百の瞳は異常に充血し、元には狂気じみた笑みが張り付いていた。
「さん、観しなさい。その女とガキの居所はもう特定したわ。
広告
あなたが私と結婚して赤嶺に入らないなら……あのガキを、の底へ沈めてあげる」
「蒼太に指本触れてみろ! 貴様を殺して俺もぬ!」
が私を背に庇い、咆哮した。
だが、百は勝ち誇ったように嘲笑い、元のスマートフォンを掲げた。
「無駄よ。私の父親の息がかかった警察層部が、すべてを事故として処理してくれるわ。さあ、そこの崖からその女を突き落としなさい。そうすれば、ガキの命だけは助けてあげる——」
「そこまでだ、赤嶺百!」
突如、岬の坂を駆けがってきた複数の音が、百の言葉を打ち砕いた。
現れたのは、息を切らしたの父・厳郎と母・かよ。そしてその背には、警庁捜査課の腕章を腕に巻いた刑事たちと、警の捜査員たちが数名、拳銃にをかけながら展していた。
「な……パパの息のかかった所轄じゃない!? なぜ本庁の捜査課がここにいるのよ!?」
百が初めて狼狽の鳴をげた。
厳郎が歩にみて、懐から分い捜査資料の束を掲げた。
「赤嶺百。貴様の父親が主導していたダミー会社を用いた巨額脱税、および警察幹部への組織贈収賄の証拠データは、今朝未、京検特捜部にすべて受理された。がかけて集めた告発状と、私が旧友の検事総へ直接持ち込んだ裏帳簿によってな!」
「嘘よ……パパが捕まるはずがない! 赤嶺が崩壊するはずがないわ!」
発狂した百がハンドバッグから折りたたみナイフを引き抜き、私めがけて突してきた。
「ね! あんたさえいなければ——!」
「ひな子!」
がを挺して私を抱え込み、を守ろうと義父が割り込んだ。警庁の刑事が瞬で百の首を制圧し、ナイフがカラランと岩のに落ちる。
「公務執妨害、および殺未遂、恐の現犯で逮捕する!」
たい錠が百の両首に嵌められた。狂乱して喚き散らし、にまみれながらパトカーへと連されていく女の姿に、かつての権力者の面は微も残っていなかった。
静寂が戻った岬に、波の音だけが穏やかに満ちていく。
義父母が、震える取りでのへと歩み寄った。
「……本当に、すまなかった」
あの厳格で酷だった厳郎が、面に膝をつき、息子ので々とを垂れた。かよも涙を流しながら、の作業着の袖に縋り付いた。
「おを具のように扱い、こんな恐ろしい目に遭わせて……許しておくれ、……!」
は驚きに目を見張り、やがてその目から静かに粒の涙をこぼした。
「父さん……母さん……もういいよ。顔をげてくれ」
、凍りついていた族の絆が、ののたいので、ゆっくりと、確かに解けていく。
そして、は向き直り、私の両を固く包み込んだ。
「ひな子。……俺と、蒼太の元へ帰ってきてくれるかい。もう度、族としてやり直してほしい」
「当たりじゃない……! 待ってるわよ、蒼太が。あなたの好きな、本をたくさん用してね」
平線の彼方から、の切れを縫って柔らかな夕陽が差し込み、の涙を黄に染めげていた。
のきにわたる暗の逃避は、完全に終わりを告げたのだ。
、赤嶺グループは巨額脱税と正融資によって完全に解体され、百には実刑判決がされた。若の内藤支も背任と報漏洩で懲戒解雇となり、親友の課がたな支として栄転を果たした。
そして、京の郊。
緑豊かな宅に建てられたさない軒の庭で、元気な笑い声が響いていた。
「お父さん、見て! このミステリー、犯がわかっちゃったよ!」
歳になった蒼太が、誇らしげに文庫本を掲げて駆け寄ってくる。が嬉しそうにそのを撫で、居の窓辺から、私は温かい茶の湯気越しにを見つめていた。
箪笥の奥に封印されていた枚のカード。
それは、絶望の証などではなかった。
過酷な運命の嵐からする者を守り抜くために、の男が命を賭して遺した、究極のの誓いだったのだ。