みかん小説
本棚

"泥の作業着と誇り" 第9話

流されたと残された缶

峰集落へ続くは、崩落した砂と流で半分以が埋まっていた。軽トラックのタイヤをに取られながら、は輪駆を駆使して坂を登り詰めた。

しかし、集落の最段へ至る最の急坂ので、は完全に途絶えていた。肌から噴きした濁流が、を川のように削り取っていたのだ。

はを乗り捨て、膝までに浸かりながら歩いて登った。

登りきった所で、は凍りついた。

に広がるはずだった峰根の畑が、跡形もなく消えっていた。

背のから発した鉄砲が、斜面の段々畑をからへと直線に貫通し、丹精込めててた美しい畝をすべて削り流していたのだ。にようやくを持ちげて顔をしたばかりのさな緑の双葉は、何百トンもの赤と岩の底に完全に呑み込まれていた。

さらに、際にあったあの神聖な『種畑』も、斜面ごと崩落し、ゴツゴツとした岩肌が剥きしになっていた。

ヘクタール、キロの種。にわたって途切れることなく命を繋いできた、峰根のすべてが、のへと消えていた。

「嘘……でしょ……?」

咲はそのに膝をつきそうになった。

「!」

方のから、掠れた叫び声が響いた。

まみれの羽を着て、鍬を杖代わりにしながら、源蔵が息を切らして坂を登ってきた。

広告

臓の持病を抱えているはずの老が、顔を真っ青にしてっていた。

「源蔵さん! がってきちゃ駄目だ!」

が駆け寄ろうとしたが、源蔵はそれをで制し、変わり果てた畑のにち尽くした。

子のから覗く老の瞳が、信じられないものを見るように見かれ、やがて激しく揺れいた。

「……全部か」

「……はい」

が拳を握りしめ、血が滲むほど唇を噛んだ。

「俺が見回りを怠りました。の畦を広げて排を切っておけば、は横の沢へ逃げたはずなんです。俺の責任です……!」

「違う」

源蔵のく、震える声が遮った。

「わしが……を見て台が来るとっておきながら、自分で畦を切らんかった。おのせいじゃねえ……」

老は鍬の先で、堆積したを無に掘り返した。しかし、てくるのは濁ったと砕けたばかりだった。

「……わしの代で、終わらせてしもうた」

源蔵のさな背が、見たこともないほどさく丸まった。

そのの午、源蔵は倒れた。

自宅へ戻る途の畦で胸を押さえて倒れているのを隣の農に発見され、ドクターヘリで内の救命救急センターへと搬送された。急性筋梗塞だった。

と咲は病院のICUのに詰め、夜を徹して祈り続けた。京から駆けつけた源蔵の息子とともにガラス越しに見守ったが、老の識が再び戻ることはなかった。

広告

の、川辺源蔵はの涯を静かに閉じた。

告別式は峰の集会で、しめやかに執りわれた。参列したのは集落の老たちと、佐々ファームの社員たち、そして取引先から駆けつけた沢品のだけだった。

は喪主の息子の横で受付にち、言も泣かなかった。ただ、焼の煙を見つめ、のようにち尽くしていた。

式が終わり、々が引き揚げた夕暮れ。

咲は集会の裏にある納ので、しゃがみ込んでいるを見つけた。

、義父の徳蔵がくなった夜と、まったく同じ姿だった。は両で顔を覆い、声を押し殺して、背を激しく波打たせていた。

咲は何も言わず、その隣にそっとしゃがみ込み、の肩にを置いた。

「……親父がんだより、悔しい」

が指の隙から、掠れた声を漏らした。

「の、親父と喧嘩してをびしてさ……もく当てもなくて、峰の原でき倒れてた俺を拾ってくれたのが、源蔵さんだった。『腹減ってんだろ』って、握り飯をわせてくれて……、あの畑での噛み方を教えてくれた。俺にとって、もうの父親だったんだ……! 恩返しも、何もできてねえのに……!」

咲はの震える背を、ただ力いっぱい抱きしめ続けた。

その翌週、京へ戻る息子から連絡が入った。

古い納を取り壊して更にするため、残された農具や具を引き取ってほしいという依頼だった。

と咲は軽トラックで納へ向かった。埃との匂いがち込める暗い板ので、使い込まれた鍬や籠を運びしていく。

その作業の最、社員のが、納の最奥の梁のに置かれていた、古い製の茶箱を見つけた。

蓋をけると、から冊に及ぶ学ノートがてきた。

源蔵が歳のから毎欠かさずき溜めてきた、『峰根栽培記録』だった。毎の候、気温、播種のさ、収穫量、そして種採り用の株の選別の基準が、几帳面な毛で記されていた。

のノートをいたの指が止まった。

『 れ。原でき倒れていた徳蔵の倅を連れ帰る。飯をわせた』 『 まだを利かんが、むしりの筋は悪くない』 『 今、初めて笑った』

がノートを胸に抱きしめ、再び目を押さえた。

その、茶箱の底をさらっていた咲の指先が、布に包まれたい属の塊に触れた。

取りしてみると、それは古い角いお菓子の空き缶だった。蓋の表面には、油性マジックで、震えるような力い文字が文字だけき殴られていた。

『万』

が震えるで缶を受け取り、錆びた蓋を押しけた。

には、何にも巻かれた油の包みが入っていた。

包みを解くと、現れたのは——あの淡い茶をした、艶やかなさな粒のだった。

「……種だ」

が息を呑んだ。

「峰根の種だ……!」

さを測ると、正確に・キロあった。アール——源蔵が自ら耕していた畑の広さに、寸分違わず蒔くことのできる分量だった。

毎、に蒔くキロとは別に、源蔵はこの・キロの種を密かに保管し、毎しい種と入れ替え続けていたのだ。自分が倒れても、洪で畑が流れても、このから絶対に命を途絶えさせないために。

蓋の裏に貼られた片には、源蔵の跡でこう記されていた。

『へ。畑を信じろ。は裏切らん』

納の暗いので、は缶を両で抱きしめ、に額を擦り付けて慟哭した。

広告

おすすめ作品

リンクを共有

以下のリンクをコピーして友達と共有してください: