"赤ペンで消した夫" 第6話
資料の霊と、酷な罠
ロビーの喧騒のをむのには、見すると完璧に計算された「能な編集と期待の作」という適切な物理距が保たれていた。 だが、子の正者としての観察は、が纏う空気の異常な密度を瞬で見抜いた。
自ドアの、通りの途切れた柱ので、希がち止まり、也を見げて何かを囁いた。 也が周囲を警戒するように線をらせ、さく頷く。 その刹――希が背を向けて歩きそうとした瞬だった。 彼女は体のろに回したの指で、也のスーツの袖を、ツン、と微かに引いたのだ。 触れたのは、ほんの瞬。 だが、それを受けた也の表筋が、子すら度も見せられたことのない、甘く蕩けるような、無防備で卑俗な悦楽の笑みへと崩れた。
子はに持っていたアイスティーのグラスを、音もなくソーサーに戻した。 氷がカランと乾いた音をてる。 胸の奥で、最に残っていた未練の糸が、完全に焼き切れた瞬だった。 「……絶対に、許さない」
子は席をち、とは逆の線を通って、階の社史資料へと向かった。 暗なには、版が創業以来発してきたすべての雑誌、単本、社内報が保管されている。 埃と古の匂いが充満する架のを抜け、子はの社内報ファイルと、也がかつて編集部員代に担当していた過の作品リストを片っ端から引きした。
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也の「癖」の原点。彼が過にどの作のどの文章をし、どのような言葉を模倣してきたのか、その文脈の全貌を網羅するためだった。
架の最段、古い文芸誌の束を引き抜いた、子の指先に、いプラスチックのケースが触れた。 奥の隙に忘れられたように押し込められていた、ラベルのない本の古いマイクロSDカード。 子は眉をひそめ、持参していたノートパソコンのカードリーダーにそれを差し込んだ。
画面に展されたフォルダ名を見た瞬、子は息を呑んだ。 そこに入っていたのは――也が、文芸部に配属された当に執し、社内の賞に匿名で応募して惨敗した、彼自の「の処女作」のテキストデータだった。 ファイルをき、スクロールする。 子の背筋に、凄まじい鳥肌がった。
そこに並んでいたのは、驚くべきことに、現朝倉希の作としてしている『の氷解』と、プロット、登物の配置、さらにはな台回しに至るまで、完全に致する物語だった。 也は、ただの原稿をリライトしていたのではない。 、自らの才能の限界を突きつけられてゴミ箱に捨てた「自らの挫折作」を、若いの名を隠れ蓑にしてリサイクルし、現代にき直して賞を獲らせようとしていたのだ。
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を具にし、妻の正力を利用し、自らのの怨を成仏させるための、グロテスク極まりない自己の劇。
その、子のスマートフォンの画面が、く震えた。 表示されたのは、也からのメッセージだった。
『子、急な張が入った。朝倉希の執宿にち会うため、から、軽井沢の荘へ缶詰になる。選考会の正だ。のことは頼む』
。 と荘に籠り、妻に嘘をついて代作業を完結させる宣言。 子の元に、たく研ぎ澄まされた刃のような笑みが浮かんだ。 彼女は切の迷いなく、ある番号へと発信ボタンを押した。
「……もしもし、法務部の監査でしょうか。元文芸第部の黒沢子です。現・文芸第部編集、黒沢也のな背任為、会社資の横領、ならびに賞の正操作に関する内部告発をいたく、ご連絡いたしました」
受話器の向こうの監査が息を呑む音が、静まり返った資料に響き渡った。