"赤ペンで消した夫" 第1話
赤字の静寂と完璧な常
赤のインクが滑らかなの繊維のを微かに擦る音だけが、夜の仕事部に響いていた。 シュッ、シュッ。 規則正しく、迷いのないその致は、歳の正者・黒沢子(くろさわ・ようこ)にとって、自らの臓の鼓と同じくらいく体に染みついたリズムだった。 机のに積まれたさセンチほどのゲラ刷りは、締め切りを迎える文芸誌の掲載原稿である。スタンドライトの鋭いいの、子はに握った赤万の切先を、びっしりと並んだ活字のへと静かに滑らせていた。
文字の並び、、句読点が置かれる位置の妥当性。 そのすべてに、きの無識の呼吸や考の癖が宿っている。 子の業は、その呼吸の乱れをえ、活字となって世にるの文章を完璧な平穏へと導くことだった。 単なる誤字や脱字の発見にとどまらない。治・正期の代設定に紛れ込んだ昭以の現代語の排除、登物のと作の史実における矛盾、の文脈における論理の破綻、さらには微細な差別表現や名誉毀損の恐れがないかまでを、歴史事典や判例集を引きながら徹に検証する。 版社・版でフリーランスの部正者として働く彼女は、業界内でも「子の目を通った原稿に誤謬なし」
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と恐れられるほどの腕利きだった。
かつては彼女も、版の文芸第編集部で正社員として最線にっていた。 作と酒を酌み交わし、企画をぶつけい、数々の文学賞を競いった華やかな々。 だが、同じ文芸部のエース編集者であった黒沢也(くろさわ・かずや)との結婚をに、彼女は自ら第線を退いた。 社内恋ゆえの軋轢を避け、何より「族の誇り」として世を驀する夫の背を、庭という方基から支えるためだった。 表台でスポットライトを浴びる作たちと、彼らを世に送りす能な編集者たち。 その栄の背には、子のように活字のを払い、言葉の輪郭を研ぎ澄ます無名の裏方が必ずする。 読者が物語に涙し、ページを閉じる、正者のをい浮かべる者などもいない。 それでも子は、この孤独で精緻な仕事をくしていた。 乱れた語彙が正しい形に収まり、文章全体がのないの面のように静寂を取り戻す瞬、彼女は自らの理由を確かに実できたからだ。
壁掛け計の秒針が、午を指した。 カチリ、と質な音をててを刻む。 子はさく息を吐き、赤万のキャップを閉めて製のペントレイに置いた。 疲労の溜まった目を指の腹で軽く揉みほぐし、子からちがる。
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夫・也が帰宅するだった。
台所へ向かい、保温ジャーに取っておいた昆布と鰹のわせ汁のりを確認する。 今夜の献は、也が好む真鱈と野菜のみぞれ煮、法蓮の胡麻え、そして根菜をたっぷり刻んだ具沢の粕汁だ。 どれも脂っこい続きの胃壁を優しく保護し、神経の昂ぶりを静めるものばかりを選んでいる。 玄関のい鉄製ドアの向こうで、属製の鍵がシリンダーを回転させる微かな音が響いた。 続いて、等な革靴がを擦る音。 子は清潔なリネンで指先の分を拭い、穏やかな取りで廊へと迎えた。
「お帰りなさい、也さん。寒かったでしょう」 「ああ、ただいま。今夜は骨にしみるえ込みだな」 仕ての良い濃紺のチェスターコートを脱ぎながら、也が息をついた。 歳。版の台骨である文芸第部の編集に最で登り詰めた男だ。 贅肉のない引き締まった体躯、入れのき届いた縁鏡の奥でる怜悧な瞳、そして常に成功者の余裕を湛えた物腰は、版業界の宴席でも常に注目のだった。 子が受け取ったコートのウールからは、夜の気とともに、座の級料亭特の品な檀の焚きと、微かなタバコの匂いが漂ってきた。 御所作との接待を終えてきたのだろう。
子は詮索することなく、コートを製ハンガーに掛け、ブラシを丁寧に当てた。
卓に向かいったのには、かけて醸成された、淀みのない夫婦のが流れていた。 也はい粕汁をすすると、満げに目を細めた。 「……やはり、君の料理が番落ち着くよ。でどんな贅沢な懐をにしても、最はこのに戻りたくなる。子、君と結婚して本当に良かった」 それは、也が帰宅するたびににする、お決まりの賛辞だった。 子はく微笑み、湯呑みにほうじ茶を注ぎした。 かつては、その言葉を聞くたびに胸の奥がじんわりと温かくなったものだった。 だが、いつからだろうか。その台がまるで、寸分の狂いもなく正・印刷された台本を読みげている役者の声のように、滑らかすぎて引っかかりのない空虚な音として響くようになったのは。
あまりにも完璧すぎるのだ。 夫はで輝かしい名声を勝ち取り、妻は庭を守りながらで彼の仕事を支え、完璧な料理で労う。 何つ波のたない、計算され尽くした台装置。 子は折、自分が也という男の「理な編集」という物の、美しい装丁の部として貼り付けられているだけなのではないかという、奇妙な疎に囚われることがあった。 だが今夜、その予定調の物に、致命なインクの染みが落とされることなど、まだる由もなかった。