"七〇二号室の秘密" 第2話
ポケットのの暗号
「真帆さん……」
わず漏れた遥の囁きに、丸子に座っていた女性の肩がねるように震えた。
真帆がゆっくりと顔をげた。代半ばのはずの彼女の頬は削げ落ち、目のには濃い隈が張り付いていた。写真で見せてくれた穏やかな面は見るもなく、気を失ったの肌が、蛍灯のので痛々しく浮き彫りになっていた。
「……あ、遥さん。初めまして」
真帆は咄嗟に茶碗を隠すように膝のに引き寄せ、歪んだ笑みを浮かべようとした。しかし、その唇は刻みに震えており、目元には嘲笑にも似た絶望が滲んでいた。
遥の線は、真帆の膝のの茶碗かられなかった。濁したたいに浸された米粒。居では、等の黒毛牛が鍋ので踊り、男たちが景気付けの酒を煽っているというのに。
「真帆さん……胃の調子が悪いとお聞きしましたが、本当に丈夫なんですか? そのお事は……」
遥が歩踏み込んで問いかけようとした瞬、真帆の顔が恐怖に染まった。彼女の線が、遥の肩越しに廊の暗がり——居へと続く襖の方向を素く確認した。
「うん、丈夫。私、これが好きなの。だから……」
「でも、これじゃ栄養も何も——」
「遥さん」
真帆がちがり、音もなく遥のへと詰め寄ってきた。その体から、えたと古い油の匂いがかすかに漂う。
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真帆は遥の腕にたい指先を瞬だけ触れさせ、元に顔を寄せた。
「今は、何も聞かないで」
誰にも届かない、極限まで押し殺された掠れ声だった。
遥が言葉を失って目を見くと、真帆は何事もなかったかのように線を逸らし、蔵庫のドアをけた。から麦茶のガラスポットを取りす。その作の最、すれ違いざまに真帆のが遥のカーディガンのポケットへと滑り込んだ。
カサリ、とい片が指先に触れる触があった。
遥が驚いて真帆を見つめ返すと、真帆は声をさず、唇のきだけで静かに伝えてきた。
『お・ね・が・い』
「遥さん、お見つかったかい?」
廊の奥から、勝枝の鋭い声が響いた。
「あ……はい! 今、お持ちします!」
遥が反射に声を張りげると、真帆は素く流しの横の丸子へと戻り、再びあのかけご飯の茶碗を両で抱え込んだ。その背は、再びを失った像のように静まり返っていた。
遥は震えるでトレイにグラスと麦茶を載せ、台所をにした。臓が鐘を打つように激しく胸壁を叩いていた。
に戻り、自分の座布団のに正座する。座卓のでは、太が嫌で肉を頬張り、勝夫が無言で酒を煽っていた。直は、遥が戻ってきたのを確認すると、したようにわずかに眉尻をげたが、やはり台所の様子について言も尋ねようとはしなかった。
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遥はテーブルクロスで隠れた膝ので、ポケットのの片をそっと取りした。
つ折りにされた名刺サイズのメモ用。くと、そこにはボールペンのい圧で、乱れた数字と文字がだけき殴られていた。
『115号棟 702号へ』
それだけだった。でも、助けを求める文でもない。ただの記号のような部番号。
遥はを固く握り締め、隣に座る夫の横顔を盗み見た。直は太と仕事の愚痴を交わしながら、笑ってビールを注ぎっている。何もらない顔。何も見ていない顔。
——本当に、このは何も気づいていないの?
台所でたいを啜る義姉の姿。そして、族全員がそれを「胃の調」という言葉で隠蔽している異様な空気。その常のに、直もまた自然に溶け込んでいるという事実に、遥の背筋にたい戦慄がった。
事が始まってが経過した頃、直が計を見てちがった。
「酒が切れちゃったな。ちょっとくのコンビニで買いしてくるよ」
「あら、そうかい。ついでにアイスでも買ってきてちょうだい」
勝枝が銭入れを差しそうとしたが、直は「いいよ、自分ですから」と断り、の鍵ではなく、壁に掛けてあった自分の着をに取って玄関へ向かった。
歩いていく距。
遥は膝ののメモをもう度指先で確認し、を決してちがった。
「お義母さん、すみません。私、痛薬を買ってきたいので、直さんと緒にしの空気を吸ってきてもよろしいでしょうか」
「え? 薬なら救急箱にあるわよ」
勝枝が訝しげに眉をひそめたが、太が「いいだろ、婚なんだからで夜に当たらせてやれよ」と品に笑って茶々を入れた。
「申し訳ありません。すぐ戻ります」
遥は逃げるように座敷を抜けし、玄関で靴を履いてへびした。
夜のに沈む宅。遥はスマートフォンの図アプリをき、帳の裏に隠した片の所を打ち込んだ。瀬から徒歩で分ほどの距に、昭代に造成された規模な県営団が広がっているのが見えた。数棟がち並ぶ巨なコンクリートの迷。その最も奥まった区画に、目の建物——第百号棟がしていた。
遥は直の姿を探すことなく、に団へと向かって夜を急いだ。
なぜ、真帆は自分にこの所を託したのか。
なぜ、族は彼女のをあの台所の隅に押し込めているのか。
解けない疑問がのを駆け巡る、遥は褪せたコンクリートの巨塔、第百号棟のエントランスへとを踏み入れた。