"31年間、母が捨てなかったマットレスの秘密" 第1話
沈み込んだ31
初の湿り気を帯びたが、の緑を揺らしていた。
都の喧騒からハイウェイをばし、曲がりくねったを登ること約90分。杉ののに、見慣れた角根の平がひっそりと佇んでいる。壁の杉板はに晒されてがかり、庭の隅には入れのき届いた陽が青のを咲かせていた。
私がまだ物つくかつかない頃、両親が買った田舎のだ。豪華なリゾートの別荘などではない。休みや連休、そして常にし疲れた週末を静かに過ごすための、ごく質素な避難所だった。
父のアーサーは元の公で世界史を教え、数に定退職を迎えていた。母のエレノアは図館の司として40く勤めげ、本と静寂をする慎ましい女性だった。とも絵に描いたような堅実派で、贅沢を嫌い、々の糧に謝してきる善良な民だ。父は擦り切れたジャケットの肘に革の当て布をして着続け、母はさくなった鹸を集めてネットに入れ、最の泡まで使い切るようなだった。
「まだ使えるものを、わざわざ買い替える必なんてないわ」
それが、エレノアの癖だった。しかし、その「まだ使える」という基準は、客観に見れば常軌を逸していることが往々にしてあった。
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その最たる象徴が、主寝の央に鎮座するクイーンサイズのベッドマットレスだった。
「母さん、頼むからそろそろ買い替えようよ。もう31だよ? スプリングの軋む音が廊まで響くし、真んが底みたいに沈み込んでるじゃないか。毎朝腰をさすりながら起きてくる父さんを見て、何ともわないの?」
ゴールデンウィークに顔をした際、私は朝のスクランブルエッグをつつきながら、何度目になるか分からない溜息をついた。
「これでも昔は級なポケットコイルだったのよ。シーツをに敷けば何の問題もないわ。まだ全然使えるわよ」
母は茶のカップに線を落としたまま、いつもの平坦な声音で返した。
「母さん、あのマットレスはね、僕の結婚活よりもいんだよ。僕がまれるからそこにあるんだ」
すると母は、カップをソーサーに置き、かすかに元を緩めた。その笑みはどこかく、触れてはならない古い記憶を繰り寄せるような、寂しげなを帯びていた。
「そうね。……あなたのお父さんも、そう言っていたわ」
それで会話は終だった。母がこの調子になると、それ以何を言っても無駄だった。
私にとって、それはの謎だった。がは決して貧乏ではない。父の教員と母の退職があり、しい級ベッドなど今すぐにでも現で括購入できる余裕があった。
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おまけに両親は、物を溜め込む悪癖があるわけでもない。父はになった古い講義資料や雑誌を容赦なく古回収にす性格だし、母だって私が子供代に使っていた玩具や類のほとんどを、私が独するなり孤児院やチャリティへ寄付してしまった。
の具も、傷めば順次リサイクルショップへされ、頃なものに買い替えられてきた。それなのに——なぜか、あの寝のマットレスだけは例だった。
央はの体でく沈み込み、の縁にはの寝返りでできたい窪みが刻まれていた。柄のジャガード織りのはあちこちが擦り切れて褪せ、の端のほうには何もにこぼしたコーヒーか何かの、茶の輪染みが残っている。まるでそのマットレスそのものが、がねてきた31という歳の澱を、すべて吸い込んで膨らみ、固まった巨な化のようだった。
「いいかい、デイヴィッド」
そのの午、庭で伸びすぎた枝を剪定していた父のアーサーに、私は打ちした。
「母さんはああ言ってるけど、父さんも腰がつらいだろう。来週、僕の方でしいマットレスを配するよ。最の反発ウレタンと独スプリングのやつだ。古いのも業者に頼んで引き取ってもらうから、父さんからも母さんを説得してくれないか」
アーサーは剪定鋏をかすをぴたりと止め、背を向けたまま、しばらく沈黙した。
初のがのを吹き抜け、枯れ葉の擦れう乾いた音が響く。
やがて父は、酷く嗄れた声で、く呟いた。
「……余計なことはするな、デイヴィッド。母さんの言う通りにしておけ」
「父さんまで、どうしてそんなに頑固なんだ? たかがマットレスじゃないか!」
父は振り返らなかった。ただ、丸まった背が、わずかに震えているように見えた。
「たかが、ではないんだよ」
その苦しい拒絶の響きに、私はそれ以言葉をねることができなかった。しかし、当の私は、それを単なる老の固と、変化を恐れる保守な理に過ぎないとい込んでいたのだ。
親孝のつもりだった。老いていく両親に、残されたをしでも適に、よい眠りので過ごしてほしい。その純粋な善が、まさか30以にわたって分い布の底に封じ込められていた「ある世界の扉」を、無残にこじけてしまうことになるとは、る由もなかった。