"毎日ラーメンをもらいに来た老人の遺言" 第1話
のは釣瓶落としというが、半ばを過ぎたこの宅の夕暮れは、まるで墨を流したように急速に濃紺へと沈んでいく。 たい枯らしが、古いトタン板をカタカタと揺らしていた。
午分。 築の造軒――夫が残してくれたこのさな平のリビングで、私はパソコンのモニターに向かい、ひたすらの学術論文の本語訳を打ち込んでいた。 カチカチというキータッチの音と、静まり返った部の空気。 突然、ピンポーンと、く掠れたインターホンの子音が鳴り響いた。
「……源蔵さんね」
私はさく息を吐き、え切った指先を温めるように擦りわせながらちがった。 慮の交通事故で最の夫をくしてから、丸。 代半ばになった私の活は、界との接触を極力断ち、自宅で翻訳の受託業務をこなすだけの単調で静まり返ったものだった。嘆の鋭い痛みはの経過とともに鈍い疼きへと変わっていたが、の真んに空いた巨な穴は、どれだけ言葉を紡いでも埋まることはなかった。
そんな私の凍りついた常に、半から決まって訪れるようになったのが、隣のオンボロ敷にでんでいる老――源蔵(げんぞう)さんだった。
玄関の引き戸をけると、の刺すような気と共に、使い古された油と湿ったの匂いが流れ込んできた。
広告
(たたき)の向こう、灯の暗いのにっていたのは、汚れの染み付いた褪せた紺のウインドブレーカーを羽織った、痩せこけた老だった。 今で歳になるという。背は丸まり、押しこそ使っていないものの、をわずかに引きずるようにしてっていた。
「……さくらさん。今も、こんなに……すまないねぇ」
源蔵さんは、く刻まれた顔の皺をさらにくしゃりと歪め、申し訳なさそうにをげた。 寒さのせいか、それともに施しを乞う恥毛のせいか、その枯れ枝のような指先は刻みに震えていた。
「あの……もし、余っていたらでいいんだ。……ラーメンを、袋分けてもらえないだろうか」
かすれた、喉の奥から絞りすような声だった。 飢えと寒さに苛まれているのはらかだった。所の噂では、寄りがなく、わずかな国民だけで細々と命を繋いでいる孤独な老だと言われていた。壁のモルタルは崩れ落ち、庭には枯がい茂るあの廃のようなで、の隙に晒されながらきている。
「もちろんですよ、源蔵さん。今、ちょうどお湯を沸かそうとっていたところなんです。ちょっと待っていてくださいね」
私は努めてるい声を作り、りで台所へと戻った。 戸棚をけると、特売のに買い置きしておいたパックのインスタントラーメン――醤油の袋麺が並んでいる。
広告
それを袋取りし、スーパーのいレジ袋に入れた。
玄関へ戻り、両で差しす。 「はい、どうぞ。温かいスープもしっかりんで、温まってくださいね」
「ありがとう……ありがとう、さくらさん……」
源蔵さんは袋を受け取ると、まるで神仏から授けられた宝物であるかのように、両で胸元にぎゅっと抱きしめた。 そして、たいので腰を折り、何度も、何度も々とをげた。
「いつもすまないねぇ……。恩に着ます、本当に……」
「いいえ、お互い様ですから。邪を引かないようにしてくださいね」
を引きずりながら、のへと消えていく源蔵さんの頼りない背。 私はその姿が見えなくなるまで見送り、ゆっくりと玄関の鍵を閉めた。 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。 もし夫がきていたら。そしてもし、夫が私を残して先に老いてしまっていたら――あんなに、誰にも気付かれず、たい部できりで飢えと孤独に怯えていたのだろうか。
にをげて袋のラーメンを乞う老のい孤独は、夫を失い、社会の片隅で息を潜めてきる私の孤独と、あまりにも似通っていた。 私は彼を助けているつもりで、実は、夕暮れのほんの数秒の会話によって、私自が救われていたのだ。
季節は瞬くにみ、に入ると、関特の乾いたからっが容赦なく吹き荒れるようになった。