"退職金より失ったもの" 第1話
「この退職は、俺が39働いてにしただ。佳代、おには1円も渡さん」
森川秀治がそう言い放ったのは、65歳の誕を迎える2週だった。
卓には、佳代が朝から煮込んだ筑煮と、秀治の好物である鯛の塩焼きが並んでいた。ささやかながら退職を祝おうと、佳代は普段よりしい本酒まで用していたが、夫は労いの言葉を期待する妻の顔など見ようともせず、預通帳ばかり眺めていた。
退職、2760万円。
その数字が印字されたページを何度も撫でながら、秀治は満そうに酒をへ運んだ。
「湯器も古くなっているし、根の補修も必でしょう。あなたの歯の治療だって途だし、これから2で相談して使いを決めましょう」
佳代が穏やかに提案すると、秀治は骨に眉をひそめた。
「勝に2のにするな。会社でをげ、嫌な取引先にも耐えて稼いだのは俺だ。おはにいただけじゃないか」
その言で、佳代の箸が止まった。
にいただけ。
39の歳が、たった6文字で片づけられた。
結婚した翌に男の直を産み、3には女の美紀を産んだ。秀治が朝6にをる活にわせ、佳代は毎朝5に起きて弁当を作った。子どもがをせば夜通し病し、双方の親が病気になれば通院や介護を引き受けた。
子育てが段落してからは、所の税理士事務所で経理補助として働いた。
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いでも取りは12万円ほどだったが、子どもたちの塾代や学費用、の修繕費がりないには、佳代の与から補ってきた。
それでも秀治にとっては、「にいただけ」だったらしい。
「私だって働いてきたわ。計が苦しいには、私の収入や母から受け継いだおを使ったでしょう」
「そんな銭の話をしているんじゃない。俺の料があったから、おは働いたを残せたんだろう。結局、族をわせたのは俺だ」
秀治は通帳を閉じ、それを自分の脇へ引き寄せた。
「これから通帳もカードも俺が管理する。活費は必な分だけ渡すから、買い物をするは俺に言え。友達との事や旅も、無駄だとえばはさん」
「歯磨きを買うにも、あなたの許が必なの?」
「夫婦なんだから当たりだ。俺がの主なんだからな」
佳代は夫の顔を静かに見つめた。
秀治は笑っていた。39連れ添った妻が、自分に逆らうはずはないと信じ切っている顔だった。
い返せば、似たような言葉は何度も聞いてきた。
誰のおかげで飯がえるとっている。
女の仕事なんて遊びみたいなものだ。
のことは妻がやって当然だ。
子どもたちが独したも、佳代は「今さら波をてても仕方がない」と自分に言い聞かせてきた。秀治が定を迎えれば、夫婦で穏やかに暮らせるかもしれないという、さな期待も捨て切れなかった。
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だが、退職が入ったに夫が最初にしたことは、そのを老のに変えることではなかった。妻をで支配すると宣言することだった。
「分かったわ」
佳代が答えると、秀治は満そうに頷いた。
「最初から素直にそう言えばいいんだ。おはのことが分からないんだから、俺に任せておけばいい」
「ええ。よく分かった」
佳代は箸を揃え、膝のに両を置いた。
「あなたが、私との39をどう見ていたのか。よく分かったわ」
秀治の笑みが、わずかに止まった。
「何が言いたい」
「あなたは、誰がしたおなのかを切にしたいのよね」
「当然だろう」
「では、全部清算しましょう」
秀治は瞬きょとんとした、で笑った。
「おに清算するようなものがあるのか」
佳代は答えなかった。
器を片づけ、流し台を磨き、翌朝の米を研ぐ。いつもと変わらない順で事を終えると、秀治が寝へ入ったのを確かめ、押し入れの奥から青いファイルを取りした。
表には、佳代自の字でこうかれていた。
「計・相続・替記録」
結婚以来、捨てずに残してきた領収や振込記録、借用、与細が綴じられている。几帳面すぎると秀治に笑われた記録だった。
佳代はページをめくり、卓を置いた。
それから夜がけるまで、39の数字を1つずつ拾い始めた。
翌朝、秀治が目を覚ましたのは8を過ぎてからだった。