千葉県に住む高田雅之さんは、3年前に父が重度の誤嚥性肺炎で倒れた際に医師から「胃ろう」の提案を受け、延命治療を選択しました。父は認知症の進行により口から食べられない状態でしたが、雅之さんは医療費がかかる中、「お願いします、父を助けてください」と決断しました。しかし、その後父はチューブを異物と感じて引き抜こうとし、身体拘束される事態に。
父は最後の数ヶ月は意識もなく亡くなり、雅之さんは選択の正しさを悔やむ結果となりました。延命治療についての考えは人それぞれであり、家族の選択が迫られる状況の中、対話の重要性が痛感されました。
人生の最終段階における延命治療の選択は、多くの人にとって耐え難い重圧を伴う決断です。高田さんの経験は、その選択がどれほど難しいものであるかを示しています。家族としては「生きてほしい」と願うものの、本人が自由を奪われる結果となった背景には、制度の欠陥が一因として存在します。さらに、延命治療に関する社会的な理解不足や、本人の意思の確認を怠る文化も影響しています。高田さんの体験を教訓に、医療体制の改善や教育の充実を図るべきです。まず、延命治療に関する情報提供と教育を充実させ、個人の意思を反映しやすい医療システムの構築が求められます。次に、家族間の早期の対話を促進し、本人の望みを尊重する文化の育成が急務です。最後に、意思決定の過程での支援制度の整備が不可欠です。この問題は単なる医療の課題にとどまらず、個人の人生を左右する重大な選択となっています。
社会全体がこの課題を正面から受け止め、行動を起こす必要があります。
ネットからのコメント
1、介護の世界で20年程働いている者です。私が働き始めた頃と違い、今はご本人もご家族も、そして医療従事者も延命治療に関しての見解が大きく変わって来ています。このご時世で胃ろうの造設を薦めるお医者様も殆どいらっしゃらないと思いますし、経管栄養で生きながらえるそのお姿を見て、ここまでして命を繋ぐ必要があるのかと思えてなりません。個人的な見解ですが、寿命とは、字の如く、長くも短くもその人がこの世で生を受け、幸せを感じながら生きた証だと思います。元気なうちから、自分が将来延命を望んでいるのか否かを、きちんと意思表示しておくことが1番大切ではないかと感じます。
2、YouTubeで見た障害児は生まれたときからあごが小さく飲み込むのが難しいということで胃ろうで、食べ物を注射器で胃に流し込む形だった。大きくなって少しずつ口からも食べられるようになる希望をもってたんだろうけど、生まれたときから口から食べる習慣なかったからかなかなか口から食べさすことが進んでない。
老人の延命もだけど障害児が生まれたとき、その時から胃ろうが必要なくらいの子なら延命するかどうか親が決めれるようになればと思う。
3、今年2月に亡くなった母は認知症が酷くなり食べる事も忘れたようでした。医師からは体力あるうちに胃瘻も考えた方が良いということで実施しました。息子である私は少しでも生きて欲しいという思いと同時に周りの目がある事も感じていました。でも、そんな母を見舞う度に生かされている母は幸せなんだろうか?とも感じていました。胃瘻を判断した事は正しかったのかどうかは分かりませんが後悔はしてません。でも、食べる事を忘れるという事は本人は生きる気力を失っていたのではないか?という思いもあります
4、胃瘻造設して1年で亡くなられたのは早い方かと…。今だに造設後10年以上頑張っている方も居ます。自分の母が今年施設入所して、今後の事を考えた時、人間自分で食べれなくなったら終わりと考えているので、延命は考えていません。自分で食べる事が出来ない方の食事介助もなかなかの負担になります。
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/226570cdabfa6542e5eb154eb2d6981f42a56686,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]