1985年8月12日、日本航空123便が墜落し、520名の命が失われた。この悲劇の記憶は、40年後の現在も遺族の心に深く刻まれている。群馬県藤岡市民体育館が臨時の遺体安置所となり、多くの遺族が愛する者と対面した。山本昌由さんは、父・謙二さんの遺体と対面した際の衝撃を語り、出張のお土産として焼け焦げた餅菓子が思い出に残っている。
遺族による組織「8.12連絡会」は参加者が減少する中、記憶の風化を防ぐための取り組みが続けられている。山本さんは、一般社団法人「メモリーリンク1985」を設立し、AIを使った動画で事故の教訓を次世代に伝える活動を行っている。
この事故が引き起こした悲劇は、心の痛みが広がる深い傷です。多くの遺族が抱える悲しみは計り知れません。山本さんのような遺族は大切な人を失ったその時の深い衝撃に、今でも向き合い続けています。誰もこのようなつらい経験をするべきではありません。個人の痛みや喪失感で心の中がいっぱいになる中、山本さんの活動が未来の世代に希望と教訓を届けることを願います。私自身も大切な人の突然の別れに直面したことがありますが、それが望まれない別れであったとしても、後に続ける力となることがあります。
今は、必要な時に支え合い、共に前を向いて歩んでいくことができます。
ネットからのコメント
1、15年ほど前、会社の後輩から『なんで慰霊登山をするのかわからない』と言われたことをきっかけに、風化を防ぐためのさまざまな取り組みを続けてきました。こう言う無神経なことを言う人って、どう言う神経してるんでしょうか?亡くなった家族に会いに行く意味合いもあるのもわからないんでしょうか?
2、あの当時のマスコミの被害者感情を無視した取材はいくら報道することを職務としてるとはいえひどいと遺族や関係者でもないが思ってた最初の頃 機長のミスみたいなことも疑われたりもしたようだがボイスレコーダーの音声が公開され 絶対絶命のなか あきらめずに他の乗務員達を鼓舞してなんとか墜落しないよう懸命に尽くしてくれてた機長には40年経った今でも敬意を表します
3、僕の友人の医師は県・医師会からの要請で上野村に行きました。その時の話です。当時のマスコミは「遺体の写真」と「遺族の泣き叫ぶインタビュー」を取って来い!が厳命でした。そのため、マスコミはあの手この手で体育館に入ろうとしました。
そのマスコミ対策として医師・看護師等の関係者は毎回「感染防止衣」をデザインの違う物を着用と背中にマジックインキで名前の記載が義務付けられたとの事。酷い話です。
4、ボーイング社に整備不良と言うドロを被って貰った代わりにボーイング社への発注が増えると言う不可解。逆じゃね?取り引き停止だろ。当時の中曽根総理はこの事は墓場まで持って行くと言ったそうですが、それはとりもなおさず新事実が有ると言ってるに等しい。
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/74707f1a439011524dc81eed2447f79d869de3e3,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]