太平洋戦争末期、日本では本土決戦に向けた秘密機関として旧日本軍の陸軍中野学校二俣分校が存在していた。兵庫県出身の井登慧さん(現在102歳)は、1943年に徴兵検査に合格し、1944年に千葉県船橋市の陸軍騎兵学校に入学。その後、秘密訓練機関である二俣分校にて潜入や破壊工作の訓練を受ける。「命を惜しむな」といった従来の教えとは異なる方針のもと、橋の爆破や情報収集の技術を学んだ。
卒業後は台湾に派遣されるが、米軍の上陸はなく終戦を迎えた。井登さんは戦争を振り返り、「ばかな戦争は絶対にやってはいけない」と強く語っている。
この事例は、戦争がどれほど個人の人生に影響を及ぼし、その企てがどれほど理不尽であったかを告げている。井登さんの経験は、戦争が国家主導の元に個人をいかに使い捨てにしようとしていたかを如実に物語っている。高齢の井登さんが「秘密戦士」として過ごした3か月は、彼の軍歴にすら記録されず、まさに一時の駒とされたに過ぎない。これが示すのは、何よりも国家が個人の命や倫理を軽視した戦時体制の欠陥であり、深刻な人権侵害である。また、戦後も注目された中野学校の卒業生たちは、その存在自体が日本が戦争に対してどれほど危うい戦略を採っていたかの証拠だ。今後、戦争を軽率に選択しないためには、以下の点を見直す必要がある。
一つ目は、戦争教育の徹底と市民意識の向上だ。二つ目は、政治主導の戦争決定に対する透明性を確保する。そして三つ目に、戦争を経験した人々の記憶を次世代に確実に伝える場を設ける必要がある。これらを実現することこそ、未来に向けた平和の第一歩である。戦争の無益さと平和の価値を今一度、心に刻むべきである。
ネットからのコメント
1、昭和後半の学校にはまだまだ戦争を経験した先生方がたくさんおられて、特攻隊の生き残りとか、シベリア抑留で片肺がないとか、陸軍中野学校出身の英語の先生もいました。皆さん、ものすごいオーラを持っていました。怖かったですね、人間としての迫力が違いました。
2、戦争の悲惨さは多くの記事になるが、当たり前に戦争反対だけではなく、誰もが戦争などは望んでいないと思うが、なぜ日本は戦争を行う状況に至ったのか 何故、日本は戦争をしたのか その真実を共有、理解しないと、同じ過ちを繰り返す事になる 誰のための戦争だったのか 誰のための命を失われたのか仮に戦争に勝っていたら、今はどうなっていたのか
3、二俣分校の地元に住んでいます。
地元のお年寄りに聞きましたが、当時中野学校の存在を知らなかったそうです。何かの軍の施設なのかな?くらいだったそうです。休みの日になると二俣の街へ食事をしたり、酒を飲んだりしに来る若者がいた事はあったそうですが、それが中野学校の生徒とも知らなかったし、聞いても当然ながら答えてくれなかったそうです。ただ、卒業?する直前にお世話になった飲食店へお礼に来ることもあったそうです。その後年月を経て、陸軍中野学校だったということが知られて、現在では記念碑も建っています。地元での本当かどうか分からないウワサですが、当時中野学校の訓練として、浜松基地へスパイとして侵入して何かしらの証拠物件の持ち帰りや、証拠の印を残して帰って来るというのがあったと聞きました。当然浜松基地側も知らない中での訓練で、仮に捕えられても身分を明かさないという徹底したものだったと聞きました。
4、陸軍中野学校で訓練を受けた102歳の元兵士が自分は軍隊の駒だったと語り、戦争の愚かさを訴えている。80年経ってもなお、戦争は絶対にしてはならないという言葉は揺らぐものではない。
日本が過去の悲劇から学ぶべきは、軍備拡張ではなく軍縮の道であり、再び地域の緊張を高めることは未来の世代への裏切りになるものだ。日本は平和を守り、諸外国と信頼を築くことこそが真の安全保障であり、加害の歴史に向き合い、誠意ある謝罪と対話を続けていかなくてはならない。
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/050ade80ecfb87946a3b1c73b1a5cec08fe8884d,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]