1944年、京都で撮影された田井種尾さんの写真が、90歳近い親戚女性の満智子さんにより80年以上大切に保管されていた。種尾さんは天皇護衛の近衛兵として入隊し、戦時中にアメリカ軍の焼夷弾で顔や手を失った。戦後、種尾さんは苦しみながらも傷痍軍人会の活動に参加し、家庭を持ち生き続けた。重い火傷の療養期間中に受けた手術は33回に及び、人生を立て直す中で彼は家族の愛を糧に生きた。
56歳で亡くなるまで、畜産農業組合職員として働き続けた。
このニュースは、戦争の残酷さとそれが個人に与える影響を深く考えさせるものです。田井種尾さんの壮絶な経験は、私たちが戦争の悲惨さを忘れず、平和の重要さを心に刻む必要を示しています。戦時中の焼夷弾による重傷にもかかわらず、彼は家族の愛情を糧に生活を再建しました。種尾さんのような人々が、戦争の残酷さを乗り越えようとする姿勢は、私たちに勇気と希望を与えてくれます。彼の苦しみを忘れず、平和のために生きることが、彼への最高の敬意の表れでしょう。私たち全員が平和の誓いを新たにし、過去の悲劇が繰り返されないよう努めなければなりません。
ネットからのコメント
1、ジジイである私の記憶に強く残っているのは、お祭り等の時にいる傷痍軍人たちの姿です。手や足が欠損していたりして、白い装束で街角に立ち、お金を募る姿に子供である私は怖いだけでしたが、祖母やその友人達が、「本当にご苦労様でした」との言葉と一緒にお金を渡すことが当時はよく理解出来ませんでした。今はその祖母達の気持ちがやっとわかるようになりました。
2、生まれたときからこの姿の父が私のお父さんで、恥ずかしいと思うことはなかったって感動しちゃった。
3、近衛兵は誰でもなれる兵ではなく、家柄や親族の状況、本人の適正などを細かく調査の上任命されると聞いた事があります。この記事の方も良いお家柄と立派な素行の方だったとお察し致します。
4、肝心なことが書かれていないが近衛兵からすると、皇居が被災して消火活動に従事されて大火傷を負ったのではないか?この記事は4月の空襲だが、5月の空襲では消火隊と共に近衛兵も消火活動を実施し20名?が亡くなっている。
焼夷弾は消火困難のため体を張って大火傷したと推測
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/1b05ce5b6ddb3e0fe78c871f9ae2c10f32582935,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]