2025年、天皇陛下と雅子さまが、戦後80年を記念して戦争の記憶の継承と慰霊の旅に出ています。昭和天皇から代々続くこの慰霊の旅は、特に戦争末期の激戦地や犠牲者が多かった場所を訪れることが特徴です。1945年1月1日、昭和天皇は空襲の中、御文庫で特攻隊員にはなむけの料理として尾頭付きの鯛などのお膳が用意されたことに言葉を失いました。
天皇陛下と雅子さまはこの歴史的事実に触れながら、各地の被害者とも対話を重ね、愛子さまもその継承に参加しています。
この内容は、歴史の痛ましい事実とその継承の必要性に関わっています。天皇制を通じた慰霊の旅は、戦争の記憶を次世代に正確に伝える重要性を強調します。現代においても、戦争に関する悲劇を忘れず、これからの平和構築に向けて意識を高めることが不可欠です。特攻隊員が壮途に出た背景には、戦争の現実と人間の尊厳について再考を促します。また、平和教育のさらなる充実、歴史資料の公開と保存、そして国際的な平和活動への参加を具体策として提案します。戦争の悲劇を他国の経験として遠ざけるのではなく、未来に向かって共に歩む道として捉えることが重要です。
ネットからのコメント
1、大平洋戦争と言っても日本が優勢だったのは半年間だけです。
ミッドウエイの大敗北以降は殆んど負け戦。1000馬力の零戦も2000馬力のグラマンとは性能が違い過ぎて勝負にならなかったと聞きます。サイパン陥落の時に降伏していれば沖縄も広島も長崎も無かった。
2、「かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である」「しかし、よくやった」とその後に言葉が続いたと読んだことがあります。お褒めはいいとして、この言葉を基に特攻継続を判断した将官としての資格無しです。「特別攻撃を命じ、提案するならば真っ先に階級が上の将官から行かせなさい」と大元帥から言っていただけたらよかった。
3、特攻もだらだらと続けてそれが当たり前になってしまうと、送り出す上官も麻痺してしまい、特攻基地近くの農家が「隊員さん達に食べてもらって下さい」と持ってきた鶏卵を隊員に食べさせず、自分たちで食べてしまう上官もいたそうだ。それを知った隊員達は悲憤慷慨していたそうだ。昼食を摂らせず出撃命令を出したこともあり、さすがに司令から叱られたそうだ。
4、320万人もの戦争犠牲者を出しながら、戦争の最高責任者が人生を全うしたのは日本だけだ。
ドイツのヒトラーもイタリアのムッソリーニも責任を取り、取らされた。この責任の所在の有り方が、戦後の日本はあらゆる局面で責任者の曖昧な生き方に繋がってしまった。
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/19ffa51b27e89c8d0038a43a18dba5a6b8d94245,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]