1938年、村上敏明さん一家は父が南満州鉄道に転職したことを契機に、京都から旧満州へ移住しました。戦争終結後の内戦状態にある四平で、1946年7月に引き揚げが始まりましたが、その際、妹に「薬」と称する液体を飲ませ、妹は短時間で死亡しました。悲劇は続き、母親も葫蘆島(ころとう)で体調を崩し、8月に亡くなりました。村上さんは幼い弟たちと共に日本に戻った後も、妹や母への罪の意識に苛まれ続けましたが、戦後の訪問で「戦争の非情さ」に思いを馳せる姿が描かれています。

村上さんの過去のエピソードは、戦争という非情な状況下での個人の苦悩を物語っています。妹や母の死に直面し、無垢な命が戦争の犠牲となる場面には痛烈な悲しみが漂っています。どんなに辛い状況であっても、村上さんにその時の責任を感じてしまうことには大変な重みがあります。しかし、戦争が引き起こした苦しみと悲しみは個人の選択を超えるものであり、村上さんが経験した無力感も理解できます。私たちが学ぶべきは、過去の非情な歴史を知り、それを二度と繰り返さないための努力をすることです。戦争の記憶を語り継ぎ、その犠牲を忘れずに、未来への希望を持ち続けることが大切です。
ネットからのコメント
1、人が人でなくなる戦争、くだらない喧嘩の成れの果てが戦争なんですよ。全世界の刀(戦争武器)狩りが必要不可欠で、子どもらにはくだらない喧嘩なんかせず双方が納得するまで対話で解決しなさいと言い続けることが大切です。
2、もうすぐ40ですが、私が小学生の時は『おじいちゃんおばあちゃんに戦争の話を聞こう』という授業が何回かあって、一緒に住んでいた祖母に話を聞いてまとめたものを授業で発表していました。今の子たちは戦争についてどんな授業をしているのかわかりませんが…時が進めば当然 経験者に話を聞くことは出来なくなります。これから先は勝手な思い込み、刷り込みで議論していく人も出てきてしまうのかなと不安になります。実際話を聞けてもその人の立場、身に起きたことなどで内容や思いは様々で…それでも戦争は虚しいことというのは伝わりました。小学生の私が深く考えておばあちゃんの話を聞いていたかといわれれば、実際そんな考えておらず、ただおばあちゃんとのお話を楽しんでいたぐらいだったと思います。でも大人になるにつれて『戦争』に触れる機会がある度 祖母との会話の記憶がじわじわ思い出してくるんです。国民の経験者の話は大切です。
3、学校の約30人位のクラスなんて、正に世界の縮図なんだろうと思う。中には自分とは気が合わない苦手な子も居たりするだろうし、その中でどう向き合って付き合って行くかを学ぶのが学校なんだろうと。
省いたりイジメたりなど排除の理論が横行してしまい、それが世界レベルになると戦争へと繋がってしまうのでしょう。30人が仲良く出来ないのに世界全体が仲良くなる訳がないだろう。
4、お辛い体験をされましたね。戦争は相手国だけでなく自国からも残酷な仕打ちを受けるものです。戦後日本に生まれた私たちは平和ボケしてしまっているかもしれませんが、もう二度と起きてほしくないという気持ちは強くあります。
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/1d5892d40a1861f871c5b24afc08e47e15433f9e,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]